『恋』を紐解く
解説:高橋芳朗(音楽ジャーナリスト)
イントロが鳴った瞬間、スピーカーから一陣の風が吹き抜けていくような錯覚。曲が始まってすぐにわかるのは、彼が再び僕たちをダンスフロアに連れ出そうとしていること。そして、『YELLOW DANCER』のあの熱狂はまだまだ続いていくということ。
星野源のニューシングル『恋』は、日本のポップミュージックにとっても星野自身にとってもエポックになった、『YELLOW DANCER』が振りまいた興奮の余韻を見事にすくい上げて走り出す。〈J-POPの景色を変えた〉との評価が共通認識になりつつある現在の『YELLOW DANCER』の絶対的な存在感を思えば、『恋』はその一点をクリアしているだけでも〈『YELLOW DANCER』の次の一手〉としての資格を十分に全うしているといえるだろう。すでに名盤の地位を盤石にしているせいもあって時間感覚が曖昧になるが、そもそも『YELLOW DANCER』がリリースされたのは2015年12月2日のこと。まだあれからたった10ヶ月しか経過していないのだ。
ただここで強調しておきたいのは、「恋」は『YELLOW DANCER』だけではなく、もっと大きなものを引き連れた曲であること。そして、もっといろいろな思いを巻き込みながら突っ走っていく曲であるということ。小気味良く刻まれていくビートを追い掛けて、曲が中盤に差し掛かったあたりでふと頭をよぎったのは、星野がオフィシャルサイトに綴ったセルフライナーノーツにあるこんなひとことだった。
“レコーディング中、マリンバを叩きながら「これまでとこれからの自分を全部使って作っている」という不思議な感覚になりました”
この一節を重ね合わせて聴くことで、「恋」という曲の魅力の輪郭はぐっと明確になる。つまり「恋」は、星野の〈現在・過去・未来〉がスリリングに交錯していく、彼の音楽人生を捧げた一大狂想曲なのだ。SAKEROCKのデビューから13年、ソロデビューから6年。これまでのどのリリースタイミングよりも星野の一挙手一投足に視線が注がれている今回の局面の重大さを思えば、彼が無意識のうちに総力を上げて曲づくりに没頭していたのはとても合点のいく話だろう。実際、これは人生を賭けていくだけの価値がある星野のキャリアきっての正念場なのだから。
事実この曲では、いたるところで星野の人生が鳴っている。ミュージシャン人生の出発点である、SAKEROCKの処女作「慰安旅行」のメロディを紡いだ二胡の優美な調べ。敬愛する細野晴臣のスピリットを再確認するかのように飾りつけられていく、ふだんにも増して彩り豊かなエキゾチシズム。ソロデビューアルバム『ばかのうた』の歌詞世界がフラッシュバックする、生活のなかのなにげない情景から〈愛しさ〉を拾い出すたおやかな詩情。そしてもちろん、『YELLOW DANCER』で確立した星野のライフワーク〈イエローミュージック〉のエッセンス。ダンスミュージックのプリミティブな衝動を抱えながら疾走する「恋」は、これらの要素が次々と合流していくことでさらにグルーブを加速させていくのだ。
そしてこれは「SUN」や「Week End」のときにも味わった感動だが、J-POPのなかにあっても格段に新しいフォルムをまとったこのダンスナンバーが、民放局のプライムタイムを張るロマンティックコメディの主題歌としてお茶の間に投下されるのは、このうえなく痛快なことだ。しかも頼もしいことに、〈夫婦を超えてゆけ〉という必殺のパンチラインですべての恋する人々を肯定する「恋」は、ラブソングという観点から見ても圧倒的な強さと新しさを持ち合わせている。
考えてみれば、英語に置き換えにくい〈恋〉という言葉が持つ情緒は極めて日本的な美意識に基づくもので、星野が標榜するイエローミュージックのコンセプトにぴったりのテーマといえる。ダンスビートに乗せて愛を歌い上げるのがブラックミュージックとするならば、恋に想いを馳せるのがイエローミュージック。〈星野源〉というフィルターを通してブラックミュージックがイエローミュージックに生まれ変わるとき、〈愛〉は〈恋〉へと変換されるのだ。
このように、「恋」は全方位的に隙のない完全無欠のポップソングといえるが、ここから聴き取れるさまざまなエレメンツはカップリングの3曲、「Drinking Dance」と「Continues」と「雨音(House ver.)」にも散りばめられている。
全編ファルセットで歌われる遊び心たっぷりのディスコチューン「Drinking Dance」と、細野晴臣へのトリビュートであり星野の決意表明でもある「Continues」。この2曲ではイエローミュージックのさらなる強化が推し進められ、朴訥とした歌心がまぶしいベッドルーム・ソウル「雨音(House ver.)」では星野が『YELLOW DANCER』で達成したブラックミュージックの血肉化とその成熟をうかがわせる。この3曲も含めたパッケージとしての『恋』に触れてみれば、星野のビジョンはより鮮明に立ち上がってくるだろう。
いずれにしても、まちがいなく日本のポップの先頭に君臨してくるような、4曲という収録曲からは計れない密度とスケールを携えた作品である。自らの音楽人生を総括して未来へと大きな一歩を踏み出した星野の視線の先には、はたしてなにがあるのだろうか。新しいドラマの幕開けだ。